残しておきたい雑談がある

リニューアルしたなぽりんブログ。(日常報告よりちょっとまとまったネタ)

世を憚るべき表現とそうでない表現?

差別する身体:腐女子とホモフォビアを考える - SEPPUKU Web

腐女子という不思議な存在についてずっとかんがえているなぽりんです。上の記事は、わりと誠実な自問自答する腐女子の記事かなとおもいます。もちろん、自問自答から得られた上澄みはぜひ他の腐女子にもつかってほしいというメッセージも含まれています。

ただ、なぽりんの意見というか、距離感はこの記事全体のそれとは少し違います。
 
結論から先に言うと、「ホモ」はそもそも差別語などではない。差別的意図をもって発話された場合のみ差別語になるが、それは文脈によって厳密に判断されるべきであるということです。「バカ」「ロリ(-タ)コン(プレックス)」「ペド(フィリア)」「アスペ(ルガー症候群)」なども深く理解しようともせず差別語、罵倒語のように用いる人はいる(特にネット上の匿名性の高いサイトに多いです)。場面によってはたとえば「野菜と瞑想」「スイーツ」のような一般名詞さえも罵倒語、悪質なからかいとして用いられることもあるのを実際見かけています。
「一たび罵倒者の手垢がついてしまえばそれは傷つく人も多いから差別語だ」。それでいいのですか? 罵倒になると知らない幸せな人にそれは差別語だから発話するのをやめろといってまわる?
結局はどのような言葉も、発話者のアティチュード(全体的な態度)によって判断されるべきで、「この言葉は(こういう事件もあったから)差別語だ、言っちゃダメな言葉だ」と一律の言葉狩りをしても実はあまり解決はしないです。
 
もちろん、「作品を褒めるためであってもいっちゃいけない言葉」も不勉強な人の口から多々発せられることがあります。
冒頭記事の筆者はおそらく、どこかであの作品を褒める言葉のなかに「単なるホモアニメではない」という(そりゃ褒めたことになってねえよ!な)節を見かけた上、その発話者から非BL>BLという差別的アティチュードもしっかり読み取れてしまったのでしょう。すごくひっかかっていたのに、そのひっかかりについて原典を全く責めず炎上も避けて、自問自答した上で意見表明していらっしゃるのですごい自制心だとおもいます。
 
私からみると結局は発話者アティチュードの問題で、そういう態度をとる人は、結局は無意識にホモフォビアをかかえたまま腐女子であろうとする自己矛盾に耐えられない。または、そこまで深くかんがえずとも単純な現象として「好きな人・作品を思った通りに褒めたら、ブロックされた」が何回かくりかえされた時点で腐女子をやめるかジャンルにとじこもります。うまく腐りっぷりが進むと「ああいう褒め方・勧め方は絶対にしてはいけなかったのだ」と気付いて黒歴史化することにより反省し、つまり自然発酵により解決することもあるだろう。と思えます。これが私の解釈その1。

でもべつの解釈もあるんです。その解釈のまえにこれどうぞ。面倒なら飛ばしてもいいです。
 
 

余談:腐女子の進行について
腐女子も腐りかけはいろいろなところに激しく発酵臭によるご迷惑をかけるものですが、熟成してくるとネットスフィアに住処を見つけてあまりご迷惑にならないようにふるまえます。これは自治厨ともいわれるルールがあるからです。
 
でも心震わせる作品に出合って激しく再発酵を始めたときに、この自問自答もまた活動しはじめます。
 
腐女子は男性同性愛者の愛をなるべくうちに取り込もうとします。理解しあえないはずの他人を勉強し精神の中にとりこむことを短く内面化と書くことにします。
腐女子は男性キャラクターを内面化する。男性キャラクターに似た立場にあるであろう男性同性愛者を内面化する。また、男性同性愛者の(二次創作)物語を書き継ぐ先輩腐女子をも内面化する。またその先輩腐女子や彼女の作品やら行動への諸批判(自治厨)をも内面化する。二次創作の場合はついでに業界内部事情や著作権知識も内面化していくというふうに繰り返し勉強しながら世界全体への認識を深めていきます。生涯かけての内面化作業のプラターとクリフはくりかえされます。
 
勉強する腐女子は好きだよ・・(ムスカ風の微笑とともに)

 

で、なにがいいたいかというと、自分の好きな作品を、見知らぬ人からホモ作品、としつこくレッテル貼りdisをされたのを見てしまった場合、たとえばアニメの場合とします。このとき、腐女子は過剰適応として「はいはい、ホモアニメですよ、私の好きなアニメをどれもこれもあんたがたはホモアニメと呼ぶんすね、じゃあそれでいいです、世界一のホモアニメ好きが私だよ!さあもっと罵倒してみせろよ、全く応えないけどな!」みたいに、ひらきなおりとともに批判者の言葉を内面化してしまう場合があるんです。こういう言葉の使い方は仲間内でみても一見非常に「非BL>BL」「差別的」とまぎらわしい態度になり、やはりごたごたを引き起こす場合もあるのですが、本人の心の安定にとってはこの過剰適応が必要。ホモアニメ=命=生きる意味であり好きなアニメがすべてなくなったら死にたいくらい依存している人も、いやそういう人だからこそ、こういうふうにやけくそかつくそみそな言葉遣いになっちゃうのをみました。これが私の別解釈です。
 
つまりSNS上で「〇〇という作品は単なるホモアニメではない」そう発話するのが経験の浅い、非BL>BL主義の腐女子だけかというとそうではない場合も多いと思うのですよ。
さっきのたとえで常日頃ホモアニメ愛好家を自称している人(それはすなおに自分のホモ指向をうけいれられた人かもしれないし、批判者の内面化の上でやむを得ずそうしてしまった人もいるでしょう)が例示作品を、まだ見ていない同じ言語感覚の愛好家へ勧めるときのセリフとしても普通に成り立つわけです。「すごいホモアニメだから、単なるホモアニメではないくらいだから、今までのホモアニメAやBが好きなあなたはぜひこれも見て!」と。
ただこれも一応、些末ながら問題はある。これって、以前のアイヌ設定ゲームキャラへの捨て台詞が炎上したときと同じです。
誰が誰にどこでしゃべった。という情報が抜けたら(そしてグーグル先生は特にその情報を無視してきます)飛び火というか流れ弾の先にちゃんと人がいることを失念したのとおなじで、大変なことになる場合がある。うかつな書き込みだとおもいますし、最終的には、ツイッターはバカ発見器のままだから、炎上をさける力量のない人なら普段から鍵をかけてから、仲間内でしゃべるべきセリフだ。とは思います。
万が一この会話を鍵を開けたままやってる人がいれば、それはほぼ確信犯です。なにかいわれても逆に「言葉狩りするのか!」とはねつける体力、情熱、などがあるはずなので、いちげんさんの私などが心配する必要はないですね。そのまま世間の最先端で戦っていってください。すてきな才能です。
 
さらに、そこまででない人はSNSでホモの2文字をちょっと伏字にして、「真に迫る愛を表現しようとするあまり、実際の同性愛からみるとおそらくかなり頓珍漢な表現になっているが愛すべき作品」に使う動きもでてきています。こちらは、たぶん記事筆者さんは見ても問題にしないでしょう。
 
褒めるという名目であっても「この文脈でそのようには絶対に言われたくない」言葉、つまり逆鱗がだれにも1つか2つはあります。もちろんホモアニメとの物言いもそれに該当することもありますが、他のあらゆる作品へのコメントも(愛情の多寡にかかわらず)どなたかの逆鱗にあたる可能性があり、それを完全に予想することはできない。気遣わない褒め、「褒めるつもりの過ち」の最大の報いは「〇〇を褒めたはずが当の〇〇に完全に嫌われる」です。もちろん「単なるホモアニメではない」+「非BL>BL」な物言いは、どちらの解釈にせよ嫌われる要件を満たし得る言葉だと思う。実際好きな作品で目の当たりにすれば、コラ、気遣いが足りんだろと怒りを覚えることもあるでしょうし、いつものとして半ばあきらめ、半ば手慣れた内面化で逆手に取ろうと機をうかがいつつ表面上スルーすることもあるとおもいます。
そもそも私は原ツイート?の公開状況も文脈もしりませんので、これ以上はわかりません。
やっぱり忌憚なく自分の感情と情熱を込めた表現をデジタルで行いたければ、それが通じる範囲のみに限定して発話する気遣いも必要かと。当然、最初から距離で制限されたネット外の交友関係にくらべると、最初は相当窮屈に感じます。
万が一、限定された場面でも表現者としての力量が発揮できれば、それこそ周りが勉強して勝手に意図通りに受け取ってくれる場合だってあるでしょう。一足飛びにそうなりたい? そんな神ってる状況は凡才なる私にはとても想像できません。
昭和無責任女のなぽりんでした。
追記
「差別する身体」記事を下げることについて - SEPPUKU Web
うーん、私ごときの読みにくい記事は、トラバが飛んでもあまり読まれないとおもっているのですが、万が一、迷いを深くさせたりしたのでしたらすみません。元記事(の試行錯誤)自体は、おそらく万人向けネットスフィアにもうすこし長く存在する価値はあったとおもいますよ。
寒川倫さん(正しい倫理子さん)の「差別する身体」に対する疑問と、ある表現の残忍さ - 雑記
こちらの最後の一言かもしれませんね。