残しておきたい雑談がある

リニューアルしたなぽりんブログ。(日常報告よりちょっとまとまったネタ)

なぽりんは、あいまいな解釈を許す言葉「勤労」や「道徳」をとくに現在の教育機関が唱えることに違和感があります。
それらは「職業的責任感」「社会人としての責任感」で言い換えたほうがよいとおもいます。
 
 
つまり「ものの見方」「内心」だけは一人ひとり、その場その場で自由に転がっていいのだということです。硬直して「いつでも〇〇なければ」とやると判断力が低下して、鬱とか困った事態になりやすい。
 
たとえば、ロボット三原則はSF作家がロボットにもわかるようにと考えたわりと頭のいい合理的な命令セット。これを人間的にならべかえたてみると自分としては明らかで正しくわかりやすいルールができるとおもいます。

ロボット工学三原則 - Wikipediaからなぽりんの考えた人生のルール
 
第一条、自分の命(心と体)を守ろう。
第二条、第一条が守れる範囲で自分を大事にしてくれる人のことを大事にしよう。
第三条、第一、二条が守れる範囲で、お金をくれる人を大事にしよう(被雇用者向け。「勤労」)。
第四条、第一~三条が守れる範囲で、帰属団体(国とか社会全体とか、ネットのサイトとか、主義主張の集まりとかにいる「みんな」)のことを大事にしよう(「道徳」)。

 
この程度に複雑なら硬直のしようがないでしょう。ひとつずつゆっくり順番にかみしめて判断すればよい。
しかしこれの三条だけをぬきだして「勤労せよ」、四条だけ抜きだして「道徳を守れ」っていってもあまりにいきなりでわけのわからなすぎる命令で、子供や理解力の低い人には無駄じゃないですか。一条、二条で余裕をつくることをせず、いきなり三条から出すことで、自分に鞭打って無理をさせてでも、というニュアンスが入ってきます。
もしかして今は勤労も道徳も意味が違うんですか?もっとはっきりした言葉で教えてるの? でも私の知る限り勤労、道徳という言葉は昭和から「わけのわからない命令」のまま使用されてきています。今でもお役所の言葉の中にしっかり残っているのをみてちょっと絶望しました。
 
 
同様に「差別」もちょっと混乱しがちな言葉だとおもいます。
「差別じゃない区別だ」という言説もありますが、心のなかでの差別なり憎悪がある「差別心があること(区別をつけること)」とそれを言動に出す「差別行為」は全く重要度が異なります。
この「加害的言動」だけをとりあげるべき。それを「いじめ」と呼ぶのもまた歴史的ごまかしの積み重ねがあり全く正しいともいいきれない(いじめくらい許してやれとか、酒を飲んでたんだからしょうがないとか適当なとりなしを言う人がまだいるくらいだから)ですが、「憎悪を理由とした理不尽な言動」をした時点でようやく「差別(行為)」でしょ。「この言葉が人を傷つけるとわかっていて傷つけるためだけに言葉をつかうこと」=悪罵=言葉の武器であって「いじめ」というのともちょっと違うと思うんですよね。
 
もし少しくらい差別心があっても、または全くないと自分では思っていても、いつでも「だれかそれをきいて傷つく人」に自分の言葉がとどかないように対処や心くばりをしてからいいたいことをいう。こういうルールで、しっかりとすみわけができればそれは差別(行為)を形成しない(もし防止したのにそれでも万全でなくてどこかで言動がだれかにむつかってぶつかってしまったら、そこで本当の差別となるから、余計なことはどこにもいわないのがベストだが)。
という風に、法律の基礎(「行為」の定義など)を借りてきてもいいから、しっかり教えてほしいとおもいます。プライベート、ネットでなく残らない場所(たとえば穴の中に向かって、という童話がありますよね)なら愚痴くらいいっていいですよ。基本的人権としてね!
気軽に上司や部下の愚痴をいったら差別主義者だといわれるのでは人として立つ瀬がなくなります。
お父さんお母さんからなにかいわれてショックだった。友達からなにかいわれてショックだった。ならまだしも、今やネットで永遠に残る偏見を遺すことがだれにもできてしまいますから。



 
まあでも、本当にこういう話が必要になるくらい世間がサツバツとしていて。いい年でミサイル撃ついじめっ子の国ではこんなんどういっても無駄でしょうけどね。あの国では本当に分別のある大人なんて育たないでしょうが、日本で毎日のようにニュースでそれを見せられる心の柔らかい人たちが心配です。
日本の中だけはそういう状態にはなってほしくないです。そして日本語は含蓄があって造語力も高くて本当に豊かな言葉だけに、あいまいな言葉で誤解を与えやすいところが惜しいとおもっているのであえて書きました。
なぽりんでした。

参考リンク
履歴書に出身小学校・中学校を書かせるのは辞めたほうが良くない? - ゆとりずむ