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ASは世間を茶番と読む

AS(発達障害自閉症スペクトラム)の話をします。
一応いっておくとわたしも素人で、市販本を8冊くらい読んだだけのおおざっぱな話なので、勉強済みの人や医療関係者はあまり期待しないで読んでください。
 
現在の発達障害とは、いろんな能力(4~5つくらいは診断のために測定しているようです)が、全てちょうど100%前後ではなく、標準的な人とくらべて凸凹が大きい人のことを指します。
たとえば言語能力IQや数学能力IQなど測定するとすべて130くらいある(学校でもテストは優秀)のに、スケジュールを守る能力だけが人並みの100であれば、発達障害のうたがいとなります。
併発することが多いのが感覚過敏、感覚鈍麻で、たとえばある人は市販ボトルウォーターでも味が苦いといって飲めないものがある(味覚過敏)、掃除機の音が大嫌い(聴覚過敏)のに、冬もTシャツですごそうとするほど温度に鈍感(温度感覚の鈍麻)などのアンバランスが同一人物のなかに同居したりします。
 
この診断名ができるようになった歴史的経緯をおおざっぱにいうと、
昔はなにか人と違う言動があればまとめて精神病とされていました。
次にある心的能力が生まれつき0に近い人で、他の精神病とちがうものを自閉症という精神障害と診断していました。
その中でも他の能力が人並みかそれ以上であれば高機能自閉症とも呼ぶようになりました。
また他のところで能力があるのに対人コミュニケーション能力が低く、人の気持ちだけが読めないのがアスペルガー症候群と名付けられました。
じっとしていられず忘れっぽいのがADHDと名付けられました。
そして最終的に能力ごとに凸凹がある状態を多種まとめて発達障害とよび、その中に自閉症アスペルガーADHDが全て含まれることになりました。
能力に凹凸があれば発達障害なのでその程度も大から小までさまざま、色のグラデーションのように途切れなく存在するので、これを自閉症スペクトラム(広がりのある自閉症群という意味。)と呼ぶようになりました。
そして、成人し、子育てを終えたり長年の勤めを終えて定年した人や、とっくの昔に死んで歴史上の人物になっている人にも伝記やその人の書いたものなどをつうじて、こういう発達障害の傾向(大なり小なり)が発見されるようになりました。(最初に書いた能力偏り例なんかは、しょっちゅう締め切り破りをした過去の小説家さんっぽい能力の偏りですよね)
 
他の精神病や精神障害と同様に、今は発達障害にも、本人や周りの「困った状態」を放置することなくできるだけ社会的にケアをしていこうという機運があります。
たとえばADHDと診断された人には薬が提案されています。その薬も個人の体質や状況によって合う合わないがありますが、体質や状況に合った薬を飲むことで本人が症状が軽く、生活しやすく感じる場合が発見されているので、そういう利用しやすいケースには薬を飲み続けてもらおう、など。
また自閉症にも専門の医師や療育方法、ケア施設でノウハウが蓄積されています。
 
ただ、軽度の発達障害でハイティーンや成人で能力の偏りが発見された人では、「だれでも凹凸はあるから、苦手なことがあっても努力でカバーしろ」と育てられ、いわれたとおり自主努力でなんとか社会人になれたため、自分の来歴にプライドを持っていて、ケアそのもの(ケアしようという機運の生まれた世の中)を受け付けない場合があります。
 
努力をして手に入れた「ふつう」は誰にとっても宝物なのですが、それを今からでもケアしようという機運に「過剰さ」「見下し」を読み取ってしまうわけです。
 
でもケアする側のやろうとすることは見下していることだ、という理由で嫌っていることを表明すると、当然ながらケア順番が最後にまわされたり、ケアが受けられなくなります。その人にとってはケアが過剰だから見下していると思ったんだろういう理屈です。
ふつうの人は「ケアが必要そうな人にケアを申し出ること」を見下しているとは受け取らないです。 
ケアをする側が立場が上だという誤解がひろまっているからこうなっているのかもしれません。
 
このような発達障害の「困り」は、ある本では「茶番に見える」という言葉で表現されていました。

 p146 今すぐ「茶番センサー」を止めろ より引用
「本当に茶番だと思います。特に「雑談」とか「挨拶」とか「面子」には拒否感が強かったのではないでしょうか」 

自分が共感能力が少ない状態があたりまえであるために、他人からの共感は嘘か見下しに見えてしまう。他人同士が共感のやりとりをしていると茶番劇に見えてしまう。そういう人が発達障害の人には多いようです。
だからといってやめろとはいえません。「茶番センサー」もスイッチがないのでいますぐ止めろといわれても無理ですよね。
でもブログのようなところで「私には見下しであり、つまりケア過剰である」とケア(のとっかかりとしての雑談)を拒む姿勢を永久表明することは、時期尚早かもしれません。少なくともケアを差し出す側にとっての活動の障害や混乱のもとになるので、敢えて公表することはやめたほうがいいのではないかとおもいます。
 
これはうつ病でも似たような困りの発生があって、つまりは、共感的コミュニケーションをすぐに「立場の強弱」に変換してしまうことで、強いストレスができて困りごとができるんですよね。
日本社会が「お客様は神様」などという立場の強弱でものごとを言っていいとか悪いとかする機運を常識にしてしまったのがよくないし、さらにツイッターやブログでの晒しや炎上という弱者いじめ、私刑になりがちな手法でないと個人がそれを正せないという状況に進化してしまった。立場が人をつくるという前提でしゃべるのではなく「人間の心に訴えるコミュニケーション」が「ダサい、邪魔」という理由で絶滅しかけている。(ラノベでもてっとり速い転生能力系がおおいのはそういうことだと思います)
 
先生の板書の誤字に生徒が堂々と指摘し、仕事中の警官にもタックスペイヤーだぞと文句をいう、マイクロで立場や評価にかかわりないコミュニケーションがどっかいっちゃったからでしょう。
そして消え去りガチなマイクロなコミュニケーションを求めて、うっかりブログという広域コミュニケーション手段を使ってしまうと炎上してしまう(主語がでかい)、逆転の結果をもたらす例もたくさんあるので、気をつけてねといいたいわけです。