残しておきたい雑談がある

リニューアルしたなぽりんブログ。(日常報告よりちょっとまとまったネタ)

ヘイト殺人についておもったこと。

最初に、被害にあわれた方にお悼み申し上げます。
以下は個人の感想です。
 
ここ数年、ヘイト犯罪、いわば妬みによる犯罪が目につく。しかも、八つ当たりで顔も知らない人を殺す事件だ。
小学校の通学バス待ちを殺す。直接会話していたわけでもないIT講師を殺す。企業の建屋に火をつけて中の社員を殺す。
自分が不幸なのを直接関連のない他人にぶつける。その結果自分が刑罰を受けることもいとわない無敵の人。
殺人罪、現住建造物等放火罪。これは両方とも、極刑を受ける、日本の刑法で最も重い部類の犯罪だ。おそらく無敵の人はそういうこともあらかじめ調べてよく知っていたのかもしれない。
 
世の中がなんでもググれるようになって知識には価値がつかなくなった。組み合わせ力とか論理力、コミュニケーション重視になってしまって、いままで数値化できなかった「優しさ」に「いいね」などの数値評価がつくようになった。学歴より何より「優しさ」をかなり高い基準まで育てることができないと、最終的にせっかく積み上げようとしていた学歴や職歴も失ってしまうのが今の世の中かもしれない。
もちろん、親子間の犯罪などもある。親子でも学歴などで「自分の子育てが間違っていたかもしれない」という事実を曖昧にしておくことができなくなってしまった。
「優しくない子」には優しくなる能力を生まれつきかなにかで持てない子もいる。近年激増している発達障害がそれで、適応障害から発達障害だったと診断される流れだ。発達障害は能力が万全でない、凸凹で困ったことがあるということ。発達障害の発見されてすぐのころは最初、男児に多いとされていたが、近年は成人や女性でも発達障害との診断を受ける人が多い。
優しくて細やかな社会に適応できない子は、発達が人より凸凹なのが発見され、取扱い注意の札をはりつけられて、自分が想像していたような「職業」についたり「大人」な言動ができないことに戸惑い、社会に分け入っていくことができない。
 
昭和なら、そんな余計な評価はつかなかった。曖昧なまま混ざり合って補い合って生きていけた。もちろん、そうでない人はいただろうけれど。少なくとも、酒を飲んで記憶や財布や貞操を失ったり、タバコ臭いパチンコ屋さんで暇を潰して一喜一憂したうえで生活に必要なお金をなくしたり、性交に励んだり。そういう社会的に不利になるとわかりきったことだが合法な遊びであれば、やっていても曖昧に「でもあの人はいい人だから、社会の役にはたっているから」と受け入れられる余地があった。合法と違法はぱっきりとわかれて合法のなかでのいがみ合いなんてそれほどなかった。
平成、令和と進むにつれて、機械で文章をおくりつけることによるコミュニケーションが膨大に増えた。人間と人間のやり方で流暢に話せるか、機械と機械のやり方で流暢に話せる人だけが生きていける。
両方苦手な人、あいまいな位置にいる人は自分を定めかねてふらついている間に、オリンピック選手のように早熟に自分の進路を決める人たちに自分の席をとられたように感じるのだろう。
最初から人数全員の席なんか用意されていなくなったのがこの社会かもしれない。特に、記憶力とかそろばん操作でサラリーをとって食っていけてた世代の子供世代は親が学歴社会にしばられてるからおかしなおかしな記憶力重視の学校教育を受けさせられて、社会に出たらそんな凸凹な能力はいらない、といわれてしまうわけだ。
 
このように理解のあるようなことを書いたからといって自分は殺人者を救うことはできない。なにより一番評価をつけたがり他人を裁きたがるのがこの手の犯罪者だ。自分が社会で良い評価をうけられず優位に立てなければ暴力を振るう。そういう行動でこそ社会に溶け込めない人間であると自ら証明しているわけだ。自縄自縛もいいところだ。自分はよく「芥川龍之介蜘蛛の糸にでてくるカンダタのようだ」とおもう。
 
自分は自分勝手な犯罪者のために指一本動かさない。被害者のことこそを忘れないでいたい。
犯罪者の言い分なんてゴミ箱に放り込んで忘れてしまうのが一番の被害者への寄り添い方だと思う。
FREE!の続編、公開停止になった。そういうことを丁寧に覚えておくつもりだ。