この世の中では自費出版(カミタバをつくってそういうのが読みたい人に売る行為)と編集者による編集を経た商業作品とがあって
商業作品では「ミンナの目に触れるんだからお行儀よくしろ」という規制感情の強い読者がいることを覚悟して自主規制している編集部も多い。
でも自主出版は自腹で印刷代・流通費用を払ってる。漫画~アニメは娯楽作品で作画に手がかかる賭け。そういうところでは自分のセンスだけを信じるしかないので一般読者からはいわば好戦的にも見える主張がなされる。「自分じゃなにもつくれない上に1本しか買ってくれるわけでもないのに1つ買って読んだだけでえらそうに言うな。課題図書でもないんだから敢えて買わんでくれ。楽しんでくれる人、なんなら信者になってくれたり、二次創作までして盛り上げ愛してれる人のほうが、まだ実は心情的に近い位置にあるなあ」という製作者の本心がある。それは、「黙って1冊買ってくれる人」を減らすだけだから経営判断で綺麗に覆い隠してるけどね。表現というのはわかる人の手にだけ渡ればよい。
上から目線で「コレはOK、コレはダメ、私がokといったものだけつくりなさいヨ」と市場代行者として自主規制の激化をおしつけてくる余計なお世話読者(NAPORINも昔はそういう純粋消費者*1だった)は正直、本当にうざがられる。言うとおりに「ミンナ」の顔色をうかがっていきつくところは博愛と平和の宗教家がつくったような平坦なストーリーとキャラ。
ということを10年くらいかけてまなんだ。
グロや猟奇心を目的にしてはいけないが、まずはギリギリの表現を試みることだ。逆にいえば、ときにはグロや猟奇とみられるかもしれないモチーフを最初から回避しようとしてはいけないということと言い換えてもよい。
とはいえ、実在の人物やら症状やら事件がモチーフの場合、だれかの人生を狂わせる可能性があるから、極力元ネタがわからないようにする、くらいのことはしないと大多数にとって不愉快になってしまう(法律という形で明示的に世間がいろんな基準も出してる)。法律を守って、棲み分けるのが一番よい。
最終的には芸術的センスの命じるまま。穏和で幸せな人々に受け入れられやすいセンスも居るし、厨二病より過激に戦うことで少数に熱狂的なファンを持つセンスもいる。センスは狂気と定義されてもいい。狂気にしゃべるなと命じても彼らはどこかしら手当たり次第に道をみつけては自分の信じるままにしゃべる。一部の読者はあえてその書棚には近寄らない。
「敢えて近寄らない読者」の範囲を少なくした作品がよいかというとそうではない。50億人も人はいるのだからすべてに配慮などできない。逆に5歳児にしか、80歳以上にしか、訴求しない棚もそれぞれしっかりあってこそ書店。うっかり全年齢に訴求できればもうけもの。
アニメでは見る経験を積んだ視聴者にのみ通じるハイコンテクストという用語がわりと普通にあって、ごく初歩なところでは記号、ロケット団の制服とか、キツい性格の釣り目とか。
で、プロデューサをみてるとユーチューブ試行版はハイコンテクスト狙い、テレビ版につながったら(投資などがあつまったら)ローコンというか誰でもわかるように細かい描写、というのがあって、描写を重んじる人は後者を読めばよいし、オチだけ早く教えてくれないと困るという人は前者かなあと。
本でもなんでも、ストーリーというのはそういうねらい目の選択を綺麗にクッキリとねらったとおりにいかせるための「センス」、脚本技法でもあり作画監督でもあるなにか…、要するにだれにも(作品そのものでしか)教えられないもの、意識しつつたくさん作品を見ることでしか学べないもの、が大事なんだよという。そういうのがツイッターで見られることはうれしいけど、じゃあだれでもその理屈をわかるかというと、作った人以外はすべて後付。
たとえ話だから取りこぼすと思うんだけどね。すべての作品で設定そのものが大事なんじゃないんだけど、ふとした描写で「えっこの話は架空の戦争社会の中の話だったの」と気づかされる衝撃とかで、NAPORINは良質な感動を与えられたことがある。という例えで考えてみたらわかってもらいやすいのかな。
たいした事もない、たわいもない平和な話でも最後までみせられる画力やキャラ魅力、情景描写魅力でひっぱっておいて、読者が大人になってからアレはああだったとじわりとわかる作品もある。それは送り手が本当に狙い澄まして計算していることなんだけど、すべての受け手に訪れる経験ではあり得ない。逆に送り手があの受け手だけは最低限感動させようとおもってつくっているのかもしれない。
そうでなく、パンクロックのコンサートみたいに怒りをたたきつけるように、とか何かへの憧れをすべてつめこんで、などなど、千差万別の表現。
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そういえば昨日「インサイドヘッド」を見たんだけど、途中で主人公たちが二次元から1次元になるシーンがあって、前後に比べてそれほどテンション高く笑うためのシーンではなかったんだけど、NAPORINにはすごくキた。まず作画(レンダリング)がとてつもなく簡単(速い)だろうなというのと、数学的現実にくらべて主人公がその状態を表した言葉*2があまりにもナンセンスなので笑ってしまった。小さいお子さんたちの笑い声は前後に比べればそれほどでもなかったと思う。
ミニシアターだったんだけどスピーカーが近くてうるさかったのでティッシュで臨時耳栓をして見ていた。(たまに上映スペースの音量が暴力的にデカイ設定のとこがあるね、鼓膜の強度試験でもしてるのかしら)
あの頭の中身地図をみてると思考とか意識ってそんなに綺麗に分かれてはいないだろうとおもうのだけれど(だから心理学的にはそんなに参考になるものじゃないと思うけど入口にはなるのかな)、本当に良くできてるし、こんな面倒なことがらだったり考えたくもないことがらをこんなに扱えて視聴年代トトロなみってのもすごいことだろうし。
大竹しのぶさんはホントに七色インコなみの演技の達人。
99999人のイケメンはものすごく刀ゲームっぽかったw
カナシミはなぽりんからみて本当にイヤだ(自己嫌悪)と好きの間をふらふらふらふらしてたよ。なぽりんは本当に泣き虫だったのに、母親を叱れるようになってかなり長いと忘れてたんだなと。
で、怒りは攻撃を受け持つし、ディスガスティング(和訳はイライラだっけ?)はおしゃれなんだよね。そうだね、あまりにも身なりにかまわないことは人をイライラさせるからイヤだああはなりたくないとおもうから人はおしゃれするし、フィアーがあれば安全な方策を考えるし。
面白かった。うん。
事前の映画のラーバユーのオチは英語話者向け。
ドリカムのあの歌の写真でかなりすでに涙もろい状態に。
エンドロールはピクサー恒例の「ベイビーズ」リストがまたよい。
それにグローブリーダーとかいる。直訳すると地球のwグローバルな主導者、なんだけど、本当に球体の受け持ちの人がこんなにいたんだなということもおもいました。
円や球は(そういえばブーバ・キキ効果のことを最近知った)、根本的に人を和ませるのだなあ。ベイマックスも可愛かった。