尊厳という言葉は犯すべからざる気高さを指すようだ。だれにでもその尊厳があるとすれば現代用語では精神性といいかえてもいいだろう。
尊厳死という言葉について、くいちがいがある。
オランダでは「そのヒトの尊厳の部分が先に死んだから肉体は生きていても1人のヒトが死んだと判定する。死の一種である」。
日本では「尊厳のある死。それを迎えるためにあえて尊厳が存在するうちに安楽死したほうがいい場合がある」。
というふうに、言葉の解釈が正反対になっちゃってる。オランダで言う尊厳死は「尊厳がない死ですでにやってきたもの。」、日本でいう尊厳死は「尊厳がある死で選び取るもの。」
だから日本で尊厳死=安楽死と誤解されることになるんだと思う。おそらく、導入期にくりかえし行われた新聞での誤用により「尊厳ある死を求める」立場のほうが日本の主流になっている。その一因は日常において尊厳という言葉も死という言葉も「立派」すぎたためかと思う。立派なものはないよりあるほうがいい。もうすこし気軽に精神死とか、ちょっと意味がずれるけど脳死でも訳したほうがよかったのではないだろうか、とこれもいつかどこかで読んだ受け売り。
アニミズムと仏教のおかげで、位牌が子孫を「見守」っていたり、「草葉の影で●●する」というような擬人化が当たり前にある日本。
たとえば尊厳(精神性)が完全に死んだとされても、それは誤診をわずかでも含むかもしれないため、安楽死させて見捨てる理由にはなりにくい。いつか仏になれば尊厳(精神性)は自然に回復されるのだという考え方でもある。
それは自然の厳しさの中での日本人の優しさ、他人の痛みへの思いやりの最終ラインをつくってきたんだと思う。
共感性高い、空気読める(とくに母親が)、そんな家族だの人間関係が温かいものとされている。
いわなくても推測で理解できる訓練を繰り返して来すぎた。物言わぬどころか肉体さえ持たぬ祖先の精神を慮りつづける。
仏教が色即是空ととてもドライな基本骨格をもつ宗教を千年以上教えても、なんなら九相図まで書いたし一休さんはメメント・モリをとなえたけれど、「そのうえで慈悲は大事だ」という教えをかぶせないといきていけないので、死んだ人にだってさぞ痛かったことでしょうと、いたわりにもならない言葉をなげかけてしまう。
精神の失せた肉体はいくら息をしていたって容れ物にすぎないとパキっと切り捨てることが難しい。
欧米人にだってそういうウェットな部分はあると信じています。
なんだかんだであちらでも審判のラッパがなったら全員墓から生き返ると信じているわけですし。
が、それは医者や法律という不可視の権力と、たとえばカウンセリングなどで解消しているのでしょうね。
結構これで新世代はドライだドライだなんでも人工知能だ、といわれるのですけど。